そのカタチに、なぜか惹かれる理由
なぜか惹かれてしまう形って、ありませんか?
意味があるとは思えないのに、目が離せない模様。
駅の床に刻まれた線。
古い神殿の壁に残る配置。
風にゆれる草の向き、雲の渦、花びらの重なり。
どれも偶然のようでいて、ふと心をつかまれる瞬間があります。
初めて見るはずなのに、どこかで知っていたような。
言葉になるよりも先に、胸の奥がかすかにふるえる。
そういう形があります。
それは、まだ名づけられていない“何か”が宿っているからです。
ある形にふれたとき、
私たちは、とても静かに、でも深く、動かされることがあります。
風が通る道。
水が渦を巻く流れ。
木が枝をのばす角度。
星がめぐる軌道。
そうしたもののすべてに、ある一定のリズムが宿っています。
カタチとは、それらが沈黙の中でひとつに結ばれたもの。
言葉になる前の真理。
音にならなかった祈り。
世界がまだ隠している意志のようなもの。
ふれた瞬間、それがなんであるかを理解するより先に、
ただ「わかってしまう」という感覚が訪れます。
それは、存在の奥に刻まれていた記憶が、ふと目を覚ますようなこと。
世界と、どこかで同じ呼吸をしていたことを、思い出すような感覚かもしれません。
わたしたちは、なにかを理解したくてカタチに惹かれているのではありません。
すでに自分のなかで響いていたものに、ふたたび気づいていく。
そんなふうにして、忘れていた奥行きに触れていくのだと思います。
幾何学模様、螺旋、重なり、円環、交点。
それらはすべて、
生命や宇宙、大地のリズムが凝縮された“記憶の断片”なのかもしれません。
カタチとは、世界の深いところで息づいているものが、ふとあらわれた姿。
そしてそれは、私たち自身のどこかとも、たしかにつながっているものです。